昭和43年春、北海道立小樽潮陵高校を卒業、立教大学進学とともに野球部に入部、新座にあった智徳寮で4年間を過ごした。実は親子二代の立教大学野球部員である。
私の父(川崎信一)は戦後再開された東京六大学リーグ戦にて、立教大学の主将、外野手として戦後初の首位打者となった。その父とグランドの傍で育った母の話である。旧制小樽中学(現小樽潮陵高校)から立教に進んだ父の時代はまさに戦争とともにあった。
太平洋戦争前夜から開戦、戦況が悪化する中で学徒動員、海軍土浦航空隊を経て終戦を迎えた。その間多くの友人を失っている。東京六大学で野球を志した人達のみならず、多くの将来ある若者を失った時代(十数年前の映画「最後の早慶戦」に当時の情景が蘇る)であった。
終戦後に小樽に帰っていた父に、六大学野球を再開するので帰ってこい、との手紙が届き、そこから再び東京六大学の歴史が繋がることになる。当時は物不足と栄養失調との戦いだったと聞いた。
母の話である。当時豊島区の東長崎にあった立教グランドのレフト後方に面して母の生家があった。父は縁あってそこに一時下宿したことから母と結婚することになる。多くの野球部員が遊びに来ていたそうである。
戦局が悪化していったある日、一機の練習機が飛来、低空で東長崎のグランドの上空を旋回しはじめた。当時女学生だった母と姉は外に出て夢中で手を振った。するとそれに応えるように大きく翼を振り、やがて飛び去った。
今年84歳になる母は今でも「あれは絶対○○さんだよ、グランドに別れを告げに来たんだよ」と還らぬ人となった先輩の名前を言う。親しい友人、野球の仲間を失った父と東京大空襲を受けた母はどんなことがあっても戦争だけは絶対にしてはならないと教える。
それから20年余、私が過ごした学生時代は学生運動がピーク、東大では安田講堂攻防、ほとんどの大学が自ら全学ロックアウト、立教も例外ではなかった。やがて運動は急速に落ちつき、再びリーグ戦を戦うことに集中するようになっていた。
4年になって闘将篠原先輩を監督に迎え、同期の横山(後に巨人にドラフト1位で入団)、川田など強力な投手陣とチームワークで秋季は優勝戦線に絡んだが、あと1勝が足りず結果として3位となった。
野球の技術では父には遥かに及ばない自分であったが、そのシーズンに今から思うと唯一の親孝行だったのかな、と思えることがあった。父と妹が見に来てくれた慶應戦、2-0で負けていた8回表に2アウト満塁で打席が回ってきた。
初球、右中間を真二つに割る走者一掃の逆転3塁打を打った。自分の野球人生の中で最高の会心の当りである。父はその回が終わるとすぐに妹から留守を預かる母へ電話させたそうである。喜んでくれたのだろう。後日「俺なら(お前の打球を)捕ったな・・・」。親父には敵わない。
後年、父は多くのOB先輩に支えられてOB会の会長を務めた。立教大学野球部と東京六大学野球をこよなく愛した父が亡くなって8年が経った。表舞台に立つ選手、裏方で支える仲間、いつも若い人をひたすら励まし、応援していた父だが今も天国から立教の優勝を願っていることだろう。
完